人を諭す、とは

 人を諭す、ということはどういうことなのだろうか。昨日友達と思案に暮れていた話題である。ここでいう「どういうことか」という答えは辞書的な意味ではなく、その行為が社会的にどのような意味を成し、それを受動した本人にはどう感じるのか、という意味だ。
 誰にでも小学生の時、友達に石を投げて怒られたり、はたまた高校生の時に居眠りをしていて教師に注意をされたり、社会に出てもそのような説教というものはあるかもしれない。その時になぜそのように諭されるのだろうか。大体は「このまま大人になって欲しくない」だとか「法律で禁止されている」など至極真っ当な理由であろう。


その人が嫌い?

 僕は何度か、中学生の頃に人に対して怒ったことがある。もちろんその人は何かしていたのだ。でもそれ以上に僕はその人が嫌いだった。嫌いで嫌いでたまらなかった。その反動もあってか、きつく、問い掛ければいいものを大声を出して、恨み半分で怒ったことがある。一口に他人を良い方向に導くために諭している、とはいえ詰まるところは自分の感情がそう思っているかはわからない。このような客観的に見ることのできない場合もあると思う。


親という存在

 親という存在は大きい。僕が一番尊敬してやまない人物だ。どうしたらあのように、子供を導き、常識を説き、子供の疑問を明らかにしていくことができるのだろうか。もし自分に子供ができて、あそこまでの存在になれるのだろうか、と考えたら今の時点ではノーだろう。あまりにも人生経験が浅すぎる。おそらく、考えていることは学問とかそういう範疇ではなく、精神的に何段階も上なのだと感じる。高卒、大卒、大企業役員、小売店員関係なく。
 そして僕たち子供は親に迷惑をかけまいと、奔走する。学校で家に連絡が行くと知り大焦りする。警察に捕まり、親に連絡すると言われ冷や汗をかく。おそらくそれは学校に連絡する、と言われても同じように思うだろう。こっちの場合は学校による処分がどのようなものになるか、に対しての恐怖の方が割合としては大きいと思うが。
 どちらの場合にせよ迷惑をかけたがらない。親を大変特別な存在に思っているからではないだろうか。なぜかはわからない。でも一つ言えることがある。人に堂々と諭すことのできる大人はとても偉いと感じる。僕ならおそらく「それくらいの年頃だとしょうがないか」と見過ごしてしまいそうだからである。自分にそこまでの経験も、責任も持ち合わせていないという、今の状態ももちろんそれには作用しているだろうが。


どういうことか

 ここまで書き続けてきて、今まで親に迷惑をかけた記憶や教師にお世話になった記憶が鮮明に蘇ってくる。あの時は自分の保身しか考えていなかったけれども、今となっては全て自分のことを考えての発言だったのだと。僕が大学に無事入学し、卒業し、社会に出る人間となった時、今までのそのような記憶がどのように見えるか、とても気になる興味深いことだ。
 諭すことに社会的意味をつけるとするなら、それは人間が自ら他人を考える貴重な場面だと思う。人とは元来、自分中心な存在なのだと僕は信じている。その人間が他人に対して説教できることなど、それほど素晴らしいことは存在しないのではないだろうか。そしてそこで諭されたことは、時間を経つにつれて重みを増す。幼少期に親から怒られたときの記憶のようにだ。
 高3の初夏、これから受験生活本番ともあろう人間がこんなことを書くのには密かな訳がある。言うことはできないがそれはとても自分の人生では小さくとも大きな失敗であり経験だ。ここまでみてくれて感謝する、ありがとう。

LOGS.

田舎の男子高校生が考えていることを語ります。

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